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不安という気晴らし、AI という消費

不安という気晴らし、AI という消費

英語での技術書の共同執筆、海外技術コミュニティでの記事の評価や公式チャンネルへの掲載、そして OSS で世界中のエンジニアとつながり開発を進める経験。

この 1〜2 年の出来事を振り返れば、以前の自分と比べて確実に前進しているはずだった。 客観的に見れば、少しずつ積み上げてきた実績もある。 けれど、私の心の中にある「まだ足りない」「もっと認められなければいけない」という強迫観念は、どれだけ成果を重ねても一向に消えてくれない。

将来、海外のソフトウェア企業で挑戦したいという強い思いがある。 だからこそ、「もっと突き抜けなければ、今の環境から抜け出すことなど絶対にできない」という焦燥感が、常に背中を焼き続けている。

そんな折に手に取ったのが、哲学者・國分功一郎さんの 『暇と退屈の倫理学』 だった。

ページをめくるうちに、私が日々感じているこの終わりのない焦りや、AI 時代における技術との向き合い方の違和感が、鮮やかに輪郭を帯びていくのを感じた。

不安という名の「ウサギ狩り」

Section titled “不安という名の「ウサギ狩り」”

私は将来が不安でたまらない。 その不安を払拭するために、完璧でありたいと思っている。 だから、土日も休まず焦りながら技術をキャッチアップし続けている。 そうやって知識を蓄え続ければ、いつか将来の自分が何の不安も抱えなくて済む日が来ると信じているからだ。

しかし、本書で語られるパスカルの「気晴らし」の議論を読んだとき、胸を突かれた。

パスカルは言う。 人間は部屋の中でじっとしていることができない。だから、獲物を捕まえるためにウサギ狩りへと出かけるのだ、と。 ここで重要なのは、狩人はウサギという獲物そのものが心から欲しいわけではないという点だ。 もしウサギを差し出されたとしても、狩人は喜ばない。 彼らが必要としているのは、狩りに熱中して走っている時間そのものであり、走ることに没頭することで、立ち止まった瞬間に襲ってくる「退屈」や「自分が何者でもないという虚無」から目を逸らし続けているにすぎない。

私にとっての技術のキャッチアップも、まったく同じではないだろうか。

将来の不安をなくすために走っているつもりだった。 けれど実際は、立ち止まったときに訪れる「何者でもない自分」や退屈に耐えきれず、走り続けること自体で不安を麻痺させているだけなのかもしれない。

心理学には「快楽順応」という言葉がある。 どれほど望んでいた環境や成果を手に入れても、人間はすぐにその状態に慣れてしまい、再び元の幸福度(あるいは不満)に戻ってしまう。 英語で本を書き終えた瞬間も、海外のコミュニティで認められた瞬間も、確かに嬉しかった。 だが、その安堵は一瞬で過ぎ去り、すぐに「まだ足りない、同じ場所にはいられない」という強迫観念が戻ってきた。 もし仮に、すべての不安から解放された安息の地へたどり着いたとしても、そこに待っているのは平安ではなく、人間にとって最も耐え難い「退屈」なのかもしれない。

……と、頭ではそうした哲学的な構造を理解できる。 だが正直に言えば、「不安を抱えながら生きることこそが人間らしさだ」などと綺麗事で納得できるほど、現実は甘くない。 この不安というストレスは、身体感覚としてあまりにも居心地が悪く、耐え難い。 不安が消えた未来の退屈を恐れる以前に、今この瞬間に胸を締め付けている不快感を、一秒でも早く削り落としたいのだ。 だからこそ、私はその気持ち悪さに耐えかねて、今日も土日の貴重な時間を使ってコードを書き、新しい技術を追いかけてしまう。

AI トークンを「消費」する現場の違和感

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この焦燥感は、昨今の急速な AI の発展によって、さらに複雑な歪みを生んでいるように思う。

実際の仕事の現場では、工数や期間という厳然たるお金の制約が存在する。 クライアントへ成果物(システム)を届けることが最優先される以上、悠長に仕組みを紐解いている時間はない。 求められるのは AI 並みの速さと質であり、結果として、自身の理解をすっ飛ばしてでも AI にトークンを投じ、タスクを終わらせることが優先される。

特に組織に属している場合、短期的に見れば、理解をすっ飛ばしてでも AI を駆使して出来上がった「動く何か」によって素早くタスクを進める人のほうが、圧倒的に評価されがちだ。

しかし、ソフトウェアのプロフェッショナルとして、その「なんとなく動いているだろう」で OK を出してしまった瞬間の後ろめたさと背筋の寒さは、どうしても誤魔化せない。

長期的な視点で見れば、突発的なトラブルが起きたときや、アーキテクチャの根幹に関わる判断を迫られたとき、圧倒的な瞬発力を発揮して真の生産性をもたらすのは、低レイヤーから高レイヤーまで基盤や仕組みを泥臭く理解しているエンジニアだけのはずだ。 それなのに、目の前の組織のスピード感や評価軸は、その「理解のための時間」を許してくれない。

理解をすっ飛ばし、AI トークンを投げて奇跡的に出来上がった「動く何か」を受け取るだけの営み。 それは、手元に「理解の負債」を積み上げているだけであり、ネットのどこかで見かけるようなゴミを増産しているのと変わらないのではないか。

『暇と退屈の倫理学』では、ジャン・ボードリヤールの消費社会論を引きながら、「消費」と「浪費」の決定的な違いが語られる。 「消費」とは、対象そのものを味わうことではなく、次々と新しく現れる記号や流行、差異を受け流し続ける行為だ。 記号には実体がないため、いくら買い替えても満たされることはなく、人間は終わりのない飢餓感に囚われる。

現場でスピードに追われ、理解を捨てて AI を回し続ける私の姿は、まさに技術を「消費」させられている状態そのものだった。 お金を払い、トークンを消費した結果、自分の頭には何の理解も残らない。 そんな仕事のやり方を続けていては、自分というエンジニアの存在価値そのものが削り取られてしまうのではないかという恐怖があった。

脳のインデックスを増やすための「浪費」

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一方で、本書が提示する退屈への処方箋は、人間が本来持っていた「浪費(贅沢)」を取り戻すことだった。 「浪費」とは、対象そのものを受け取り、味わい尽くすことだ。 物事を楽しむためには、それを受け取るための知識や言語、訓練(教養)が必要になる。 料理の繊細な味付けを楽しむために舌を肥やすように、対象を深く味わうことには限界(満足)があり、そこには人間らしい贅沢な豊かさがある。

私は以前から、単なるアプリケーション開発そのもの以上に、それが動く基盤や品質改善といった泥臭い領域に強い熱意を感じてきた。 なぜなら、表面的な画面の裏で動くプロトコルやインフラ、型システムや設計思想といった「仕組み」そのものを理解することに、何物にも代えがたい面白さを感じるからだ。

短期的・効率主義的な視点から見れば、AI が一瞬で書いてくれるコードの裏側をわざわざ調べたり、仕組みを泥臭く掘り下げたりすることは「無駄な遠回り」に見えるかもしれない。 だが、私がさまざまな技術イベントや勉強会に参加しやすい東京へ上京を決めたのも、まさにこの「脳のインデックス」を増やすためだった。

人間として生きている以上、脳内にどれだけ多様で深いインデックス(問いの引き出し)を貼り続けられるかが勝負だと思っている。 何を知らないかすら知らない未知の領域に対して、自分の中にインデックスがなければ、AI に的を射た問いを投げることすらできない。 このインデックスを豊かにするためにも、私は一度コンピュータサイエンスを 1 から学び直したいと思っているし、AI 全盛の今だからこそ、あえて自分の手で泥臭くコードを書く時間が必要不可欠だと強く信じている。

AI の出力を鵜呑みにして消費するのではなく、AI との対話や読書を通じて、その出力や技術概念を噛み砕き、自分の過去の経験と結びつけていく。 それは、現代において最も贅沢な「時間の浪費」であり、知的な冒険だ。 効率至上主義のなかで技術をただ消費するのをやめ、じっくりと技術を味わい尽くすこと。 その泥臭い理解の積み重ねの中にしか、他の誰でもない「自分という独自性を持った人間性」は立ち現れてこない。

心地の悪い不安を抱えながら、理解を止めない

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きっと、将来仮に海外のソフトウェア企業で働けるようになったとしても、私のこの不安や焦燥感が綺麗さっぱり消え去ることはないのだろう。 ひとつの目標を達成すれば、また次の不足が見つかり、「まだ足りない」と自分を追い立てるに違いない。

不安をゼロにした平穏な生活を望みながらも、もし本当にすべての不安が消え去った世界にたどり着いたとしたら、そこには生きている実感のない、一番耐え難い「暇と退屈」が口を開けて待っているのかもしれない。

だからといって、「不安を愛そう」などと物分かりの良い大人ぶるつもりはない。 不安は依然として居心地が悪く、ストレスで、できれば今すぐにでも逃げ出したいものだ。 それでも、その不快感から逃れるために手軽な気晴らしへ飛びつき、技術を薄っぺらく「消費」して生きる道だけは選びたくない。

不安で胸がざわつくなら、その居心地の悪さを抱えたまま、机に向かえばいい。 AI の速さに流されそうになりながらも、踏みとどまって自分の手でコードを書き、基礎となるコンピュータサイエンスを学び直し、技術を味わい尽くす贅沢を手放さないこと。

振り返ってみれば、効率や即効性を一旦脇に置き、この本をじっくりと読み進めて自分の感情と向き合った時間そのものが、私にとって久しぶりに味わった贅沢な「浪費」だったのかもしれない。

不安という気晴らしに身を焦がしながらも、理解を止めないこと。 それが、目まぐるしく消費されていくこの時代において、私が私自身であり続けるための、唯一の誠実さなのだと思っている。